1896年10月3日ハマスミスの自宅、ケルムスコットハウスでウィリアム・モリスは死去。享年62歳でした。 モリスが死んだ時、医者は「死因はウィリアムモリス」と診断したそうです。モリスだったから死んだのだと、常人の何倍も仕事に打ち込み、ひとりでなんでもかんでもやった人でした。 そう、現在で言えば過労死のようなものだったかもしれません。つまりモリスはモリスという病に生涯患いつづけたのかもしれませんね。
亡き骸は3日後ケルムスコットマナーの近くにある、セイント・ジョージ教会に埋葬されました。 墓石のデザインは盟友フィリップ・ウェブでした。 その後、妻と2人の娘も加わり、一家四人仲良く モリスが生涯で一番愛したケルムスコットに揃って眠っています。
そしてモリスの死後四年 1900年のパリの万国博覧会ではイギリスパヴィリオンの内装を全てモリス商会が手掛けています。 つまり19世紀から20世紀にかけてモリスのデザインスタイルがイギリスという国のアイデンティティを象徴するものとして認められていた事になります。1895年から1905年の約10年間にモリスが推進したアーツ.アンド.クラフト運動は最高潮に達します。国内におよそ130ぐらいの団体組織があり活発に活動を続けていました、当然のように国内だけではなく外国に対しても大きな流れになって後の20世紀のデザインに大きな影響力を持つに至るのは想像に難しくありません。それは日本にも民芸運動として大きな影響を与える事になりました。
しかし近代以降モリスの評価は定まってはいません。そのひとつにモリスがあまりにも多様な芸術活動を行ってきた事も一因になっていると思います。しかしモリスの生涯100年を記して世界各国で展覧会などが開かれ再度見直してみようという再評価の気運が高まったのも事実です。
ただモリスの生涯の活動がひとりの人間として評価しようというのはなかなか大変なことです。何せ 詩人、作家、家具職人、壁紙やカーペット、その他のデザイン、製本、社会主導者としてのモリス、それに絵も描きとまだまだありますがきりがありません。この全てがモリスにとってはひとつでした。それは「全ての人々に美しい生活」をという大命題の元 全力で走ってきた人生だからだと思います。こうした事を考えるとモリスのオフィシャルな評価というものが定まるのはまだ暫らく時間がかかるかもしれませんね。
という事で今日を持ってウィリアム・モリスのお話は終わりです。といっても読者の心に残るモリスはこれからも私たちに多大な疑問を投げかけ続ける事は間違いありません。終りでもなく始まりでもなくまるで庭の様な存在として生き続けていく事と想います。最後に私のモリス観というのは、「デザイン」という領域を確立しそれを広く普及することで「デザイン」というものを私達自身の身近な存在にしたという事です。 表現がどうであれ20世紀以前を考えると「デザイン」なんてものは雲の上の存在であり一般の人々が意識する事も少なかった時代だと思います。もちろんデザインは存在していましたが一部の裕福な人々のため、特権階級の人々のためという背景が強かったと思います。(もちろん市井の暮らしの人々のためのデザインもあったと思いますが)それを兎にも角にも私達の生活する視線まで近づけてくれたという功績は実際に大きな事だと思います。 「美しくなければいけない」という美意識の源泉の様なものを私達に教えてくれたウィリアム・モリスに私は感謝したいと思います。
参考文献として
「ユートピア便り」 W・モリス 岩波文庫(1968)
「ウィリアムモリス伝」 P・ヘンダースン 晶文社(1980)
「ウィリアムモリス全仕事」 P・トムスン 岩崎美術社(1964)
その他多くの文献がありますので図書館や本屋さんで探してみて下さい。
それもモリスに近づく楽しみのひとつでもあると思います。 |